稲垣:
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夜、B29が飛んで来ると、高射砲陣地から探照灯で飛行機の姿を捕えて射撃する光景を、防空壕にも入らず見ていました。住んでいる家は、防火のために襖(ふすま)をはずし、ふだん寝起きしている部屋以外の畳はぜんぶはがし、天井も取り除いていました。夜、寝る時は、ふだん着のままで、靴は枕元に置いて、いつでも飛び出せるようにしていました。警戒警報になると、おむすびを作って、万が一に備えていましたが、いつも何事もなかったので、そのうちお米もなくなってきたので、最後は作るのもやめてしまいました。 |
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吉田修:
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灯火管制といって、電灯に黒い布をかぶせていましたね。あれなど、まったく意味はなかったですね。日本は海の中に浮いているから、飛行機で来れば海と陸地、市街地は一目瞭然ですよ。サイパンが落ちてから、双胴のロッキードが飛んで来て、全工業地帯の写真を撮っています。昭和20年3月9日の夜10時から3時間、首都東京はB29、300機の空襲を受けましたが、日本の防空体制など皆無に等しいと分ってからは、わざわざ夜に行かなくても、昼、堂々と行っても日本の反撃はないということで、それからの都市空襲は昼に来ていますね※。
※鹿児島や岡山など、その後も夜間に空襲された都市がある。 |
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金崎:
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八幡製鉄所では、半分に切ったドラム缶にタール製品を入れ、主要幹線道路に10メートル間隔に配置し、敵機が来る前に、目標が定められないようにとそれに火を着け、煙幕を張るようにしていました。 |
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吉田武:
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八幡の空襲の時、帆柱山の高射砲陣地から撃つ弾が、敵機のはるか下で花火のように破裂し、弾の破片が頭に当たると危ないからというので、僕らは防空壕に入っていました。 |
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稲垣:
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空襲で火の粉が防空頭巾にひっつき、熱いので、用水の水をかぶらないと耐えられませんでした。 |
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高橋:
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防空頭巾に「おしっこ」をかけて行ったという話を聞きました。 |
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白石:
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防空頭巾なんて何の役にも立たなかったです。 |
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(つづく)
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