やはたクロニクル
[Yahata Chronicle]
8月8日の八幡空襲を予告するビラがまかれた。
昭和20年8月8日が、サイパン島からのB29による八幡市の空襲でした。
8月6日の広島に投下された強力な爆弾の予告が「八幡市民に告ぐ」と
印刷されて、縦10cm、横15cmほどと記憶しています。
文章は「広島に投下した強力な爆弾を8月8日に落とすので、
一般市民は退避せよ
」といった予告文が、空よりバラまかれた。
所持していると、憲兵隊・警察からやかましく言われて回収された。
現在までに保存ができたら貴重なものでしょう。
あの当時としてはできないことでした。
(手記10 ―八幡市上本町にて体験― 中本幾治)より抜粋
◆【補足・関連情報1】
郷土史『わが故郷 八幡』に収録されている平成6年の座談会
「八幡製鐵と地域社会」の中で高田賢一郎さんは次のように証言している。

「…広島に新型爆弾(原子爆弾)が投下された翌日の
8月7日の夜だったと思いますが、飛行機からビラがばらまかれました。
ビラは憲兵隊がいそいで回収したのですが、
友達が隠し持っていたのを見せて貰いました。
新型爆弾を北九州に落とすから、女、子供は退避して下さい」と
書いてありました。当時は謀略だ、騙されてはいかん、と
さかんに言ってましたね。
 戦後になって、小倉に原爆を投下する予定が悪天候のため、
長崎に変更されたことを知り、本当だったんだとわかりました。」



◆【補足・関連情報2】
15歳(中学3年)のときに八幡大空襲を経験した石田候一さんの講演
(祝町市民センターでの平和を願うイベント:2013年8月8日)でも
米軍がまいた八幡空襲を予告するビラの話を聞きました。
(以下、石田氏のレジュメより)

昭和20年(1945年)8月頃の私は、
福岡県立八幡中学校(24期)の三年生でした。
2階に勉強部屋がある関係で、物干し台にはよく出入りしていました。

20年8月1日頃だったと思いますが、物干し台にでたところ、
チラシのような紙が3〜4枚散らばっていました。
何だろうと思って1枚を拾って見ますと、
新聞紙よりも少し厚めのもので、縦が16cm位、横が12cm位の紙に
カラーで印刷されたアメリカの宣伝ビラでした。

その内容は、上部にロッキードP38が描かれ爆弾を落としている様子。
下部の部分には、馬に乗って抜刀した日本の武者の絵が描かれ、
中ほどの部分には、日本語で
『八幡のみなさん はやく町から逃げてください』と書かれています。

急いで残りのビラを集めて空を見上げました。
いつ敵機がきてこのビラを撒いたのだろう。としばし考えましたが、
これは敵の謀略だ。騙されるな。信じるな。
そんな想いをしながら部屋にもどりました。
その翌日、地域の警防団にビラを全部提出しました。
その数日後、八幡の大空襲は現実のものとなりました。

【資料】昭和20年8月に米軍が八幡に投下したビラ
★画像をクリックして、八幡にまかれたビラを確認